2017年 04月 16日

発達障害児に関する私の考え方

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発達障害児に関する私の考え方

まず発達障害と言う言葉はだれがいつそう呼び

つまらない区別するようになったのでしょう。

社会における位置づけも
障害のある子、学校生活における位置づけも特別支援が必要な子


世の中の、発達障害ではないと思い込んでいる人々や

自分は健常であるとか普通であるとか錯覚した人間が

意味不明な基準で差別であり区別した
その顕著な例こそ、小学校の交流(普通)学級と
特別支援学級という区別教育です。


そもそも普通って何でしょうか?平均的という事でしょうか?

もしそうなら私もあなたもあの人もこの人も立派な発達障害と言えてしまいます。

そうではないのです。
俗に発達障害とレッテルを貼られた子達は

個性が強くより独創的でそのレベルは高く

逆にコミュニケーションが下手であったり、言葉が遅かったり

勉強が苦手なだけのことです。

どうでしょう?そう置き換えれば100人が100人同じではないでしょうか?

普通とはどういうおそらく?成績もまあまあ、性格もまあまあ、運動もまあまあと

言うように平均的なという解釈ではないでしょうか?


今、発達障害と呼ばれる子供たちは
幼稚園や小学校で映像業務をする関係で

外部の者として客観的に見ることが出来る職業上
15人に1人くらいはいます。

しかしそれは保護者や周りの人が気づいている数字で
実際にはもっと多いと思います。


発達障害という呼称は医学的な都合上の言葉であり

それは障害でも病気でもないのです。

個性であり単なる独創的性格です。


医学では難しい病名をつけて
病気として扱い
薬を売るのが商売ですので

商業的理由からたくさんの呼称で呼ぶようになった
と言っても過言ではありません。


そういう区別的な考え方を除外するとどうでしょう?

クラスにあるいは学年、子供たちの社会は


勉強は苦手だけれど運動が得意な子供


勉強はきわめて成績がよいけど運動は苦手という子供


勉強は年相応のことが出来るけど言葉や表現が下手な子供


勉強は苦手だけれど絵を描かせるとすばらしい絵を書く子供

これって当たり前じゃないでしょうか?


実は上記の例に我が家の長男の特徴も書いています。

勉強は年相応だけども表現が下手!これが家の長男です。

区別せず書き出していけば

普通だの支援学級だの区別もなく

何の違いも無いと気づきませんか?


わざわざ分けて考えるのが日本の特別支援学級です。
これは政治の責任です。

支援は必要でしょう。
しかしそれは全ての子供たちに支援が必要なのです。


勉強を教えることも支援です。
喧嘩したら対応するのも支援です。

怪我して応急処置をするのも支援です。


個性が強いだけで何か不得意な面があると言うだけで

特別支援学級とは
実に差別的な呼び名です。


A
君は、こだわりが強く言葉が乱暴です。

感情表現が下手です。

それを簡単に暴言と呼びます。
でもA君自身は暴言だと思っていません。気づきません。

表現がわからない又は下手なだけで
受け止めた側の問題です。


親としてきつい言葉を聞くこともあります。

ですが親は、理解していないといけないのです。

関心があり、理解しようと
絶えずわが子と接しますから腹も立たないし

あまりにきつい場合は当たり前に怒ります。


よく発達障害の子供への暴言などへの対処として

「○○君、同じように○○君がお友達から言われちゃったらどう?悲しいよね~」

的となだめることが美化されて書かれている情報が多いです。

これは大きな間違いだと思います。

そこに目に見えなくとも区別や差別感情があるからこうなるのです。


駄目なことは駄目!はっきりと言うべきなのです。


なぜわざわざ発達障害と遅れを指摘しながら

理解するのに時間がかかる多くの言動でなだめるのか?

意味不明です。

駄目なことはだめ!これで通じます。それで学びます。


我が家でも親に「君が・・・」と君呼ばわりする面がありますが

神戸人なので「誰に口きいとんねん!」で返します。

たったこれだけで「ごめんなさい」と帰ってきます。

理解しているからこそ理解が出来る親子の呼吸なのです。


学校教育においても

普通と呼ぶ子となんら変わらず信頼関係を構築し接する。

親よりも長い時間を共にする場合も多い先生方には
是非そこにチャレンジしてほしいです。


発達障害をカミングアウトした栗原 類くんが

まさに当事者としてお母さんも自分も「もっと厳しくされるあるいはすべきだった」

とあるインタビューにおいて「親子で反省している」と語っています。


では、区別しない教育とはなんでしょうか?

デンマークの幼稚園の例ですが

森の教室という有名な自然教育があります。

自然の中で学び運動し自然を知り、生き物を知り、命を知る働きです。

このプログラムには区別がありません。

結果、発達障害と呼ばれる子達は、小中学校高校と進学する時点で

非常に高い確率で発達障害を克服又は完治すると聞きました。


日本ではどうでしょうか?

幼児教育時点から区別して無理やり垣根を作ります。

それは支援でしょうか?

支援とは壁やボーダーラインを引くことではありません。

ここの子供たちの苦手な点にフォローを入れることです。


仮に得意なことを少しこっちに置いてでも不得手なことに支援をする。

それだけのことなのです。

得意なことは天才的に出来る子達ばかりですから苦手な分野こそ支援をし

長所にかえていくような環境にすべきなのです。


子供なので互いが刺激しあい成長する過程です。

「やっかいなので檻に入れとけばいい」と言う
安易で非情な支援学級制度は

誰のためにもなりません。


これらは、私の持論ですが

特別支援学級制度や放課後デイサービスという身勝手な線引きが嫌いです。


親は心に発達障害を知っていても

嘆いたり悔やんだりしてはなりません。


親こそわが子を区別してはいけません。理解し続けないとなりません。

そうした差別的な空間を排除していけるように様々な努力をしなければなりません。

私はそのように思います。


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by bbyamacyan | 2017-04-16 20:18 | Of children


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